運河・閘門 

   都道府県別データ一覧にある運河・閘門 (青字のデータは、従来運河とされていたもの)

写真 名称 ふりがな 所在地 付帯情報 形式 諸元 建造年 文化財 出典 保存状態 価値判断に係る事項 保存
評価
価値
評価
写真 木曳堀(貞山堀) こびきぼり・ていざんぼり 宮城/岩沼市・名取市 貞山運河 ①運河??、
②干拓遊水地
③塩抜き水路
延長12.4㎞,
幅25m
①慶長6(1601)頃
②慶長16(1611)以前
③慶長16(1611)以降
  市教委/WEB 大規模修復(明治期に拡幅:当初幅12.7m、改修、護岸工事)→2011.3.11の東日本大地震による津波による影響なし 事業主:伊達政宗/①仙台城と城下町造営のための木材輸送(同時代の文書による根拠なし)、②沿岸の新田開発時の排水用遊水池(海岸沿いに細長い遊水池を造るのが普通という一般論と「内川」という名称)、③慶長三陸地震津波後に塩抜き等の目的で造られた水路、などの可能性/明治期17に阿武隈川~北上川間を運河として改修・新開削し「貞山堀」と名付けた際、当初から運河として造られたという「思い込み」が入った可能性が高い→材木輸送を思わせる「木ヒキ堀」の初出は「阿武隈川絵図」(1855)で、「天保国絵図」(1835-38)でも「内川」→海岸に平行して運河を開削する意味がない(御舟入堀(1673)は地形をシュートカットしているので運河の意味がある)/川村孫兵衛の関与も拡大解釈されてきた可能性が高い→津波被災後に内川の海側の土地を仙台藩としては初めて塩田化(1615-24)したのが、旧毛利藩出身の孫兵衛だったことは確かだが、それ以上のことは推測でしかない 2

写真 木曳堀(貞山堀)松並木 こびきぼり・ていざんぼり 宮城/岩沼市 貞山運河
(阿武隈川河口付近)
松並木   慶長16(1611)~元禄15
(1702)の間の何れか
  WEB オリジナルの松が、東側に残る2011.3.11の東日本大地震による津波で、松の一部が枯れたがほぼ原状維持(対比写真参照) 慶長三陸地震津波(1611)の後、恐らく津波対策として植樹/「元禄国絵図」(1696-1702)には松が描かれているので、それ以前の植樹 2 写真
  御舟入堀(貞山掘)
おふないりぼり・ていざんぼり 宮城/塩竈市・
多賀城市・
(宮城)七ヶ浜町
貞山運河 運河 長8㎞ 万治元(1658)   市教委/WEB ほぼ護岸化→2011.3.11の東日本大地震による津波で、水路だけが残る 城下町の拡大に伴い、四代藩主・伊達綱村が、仙台城下から仙台藩の外港である塩竃への物資輸送路として開削/「貞山掘」は明治17の命名 4
写真 西通川(船通川) にしどおり 山形/(飽海)遊佐町 月光川~日向川 運河 長約7㎞ 最上氏時代〔慶長7-元和8(1602-22)〕   岩屋隆夫 路肩部分が残る 月光川と日向川を結ぶために開削された、庄内砂丘と並行する運河/遊佐郷の年貢米を酒田蔵に運搬するのに使用 2
写真 紅葉の勘十郎堀
(紅葉運河)
もみじ・かんじゅうろう 茨城/鉾田市・
(東茨城)茨城町
鉾田町紅葉
~茨城町海老沢
運河 長約7㎞ 宝永6(1709)中断   市教委/WEB 保存状態が、3市町の中で最良/水田として利用/堀沿いに盛土の痕跡 水戸藩3代藩主・徳川綱条は、宝永3(1706)、美濃国出身の松波勘十郎を二百人扶持の御客分として登用し藩の財政再建を任せ、かつ、寛文7(1667)以来、数回にわたり計画・中断していた運河建設を再開させる→財政再建は、高岡藩・大多喜藩・郡山藩・三次藩などで成功した方法を応用し、人員削減、冗費節減、年貢増、御用金賦課などを実施→運河は、水戸藩をはじめ東北諸藩の年貢米や物資を、那珂川・北浦などを経て江戸へ運ぶ内陸水路を造ることで藩の財政立て直しを目指したものだったが、土質がもろく工事が難航した上、2年で延べ130万人動員した百姓を酷使したため大規模な農民一揆を引き起こし、工事は中断、勘十郎は解任・投獄され獄死した 2 写真
写真 勘十堀(大貫運河)・跡 かんじゅうろう 茨城/(東茨城)大洗町 大洗町大貫~涸沼川 運河 長約1㎞ 宝永6(1709)中断   WEB 涸沼川に接するわずかな部分のみ残存 松浪勘十郎による藩政改革の一環(通船税で藩の財政を建て直そうとした)/約2年で延べ130万人+酷使された反対農民の大一揆→失敗→投獄→獄死 4
  名洗運河・掘削跡 なあらい 千葉/銚子市 <利根川> 運河   慶長11(1606)   岩屋隆夫 現地に掘削跡が残る 利根川河口の銚子廻り航路を短絡する内陸運河。慶長年に起工し、大半開削を終わったが、名洗浦付近の分水嶺において岩盤露出し、掘削不可能となり慶長11(1606)に中止/元禄11(1698)、天保13(1842)、明治30(1902)にも計画されたが実現せず 4
写真 見沼通船堀 みぬま
つうせんぼり
埼玉/
さいたま市(緑区)
見沼代用水東縁~芝川~見沼代用水西縁 用水路、閘門式運河(木製) 通船堀長390m+654m 享保16(1731) 国史跡 市教委/WEB 水路そのものは、水量は少ないが良好に維持されてきた/7月に通船再現イベント 計画・施工: 井澤弥惣兵衛為永/江戸と見沼代用水路の村々を直接結びつけるための舟運路/見沼代用水路と排水路である芝川との水位差約3mを克服するため閘門式水路を導入/見沼代用水東縁~芝川の間に東縁二の関と一の関、芝川~見沼代用水西縁の間に西縁一の関と二の関の計4基の木造閘門が造られた→堰枠が木造のため20年くらいしか持たず通船料を維持管理に宛てた 1 写真
写真 見沼通船堀 東縁二の関 みぬま
つうせんぼり
、ひがしべり
埼玉/
さいたま市(緑区)
見沼代用水東縁~芝川 閘門式運河(木製) 通船堀長390m 享保16(1731) 国史跡 市教委/WEB 平成6-9年に木製閘門を復元 見沼代用水東縁~芝川との間に設けられた第1閘門(東縁側から見て)→東縁と同一の水位から、一の関の最高水位まで水位を下げる 2
写真 見沼通船堀 東縁一の関 みぬま
つうせんぼり
、ひがしべり
埼玉/
さいたま市(緑区)
見沼代用水東縁~芝川 閘門式運河(木製) 通船堀長390m 享保16(1731) 国史跡 市教委/WEB 平成6-9年に木製閘門を復元 見沼代用水東縁~芝川との間に設けられた第2閘門(東縁側から見て)→二の関の最低水位から芝川と同一の水位まで水位を下げる 2
写真 見沼通船堀 西縁一の関 みぬま
つうせんぼり
、にしべり
埼玉/
さいたま市(緑区)
見沼代用水西縁~芝川 閘門式運河(木製) 通船堀長654m 享保16(1731) 国史跡 市教委/WEB 平成6-9年に木製閘門を復元 芝川と見沼代用水西縁との間に設けられた第1閘門(第2閘門は復元せず)→芝川と同一の水位から、二の関の最低水位まで水位を上げる 2
  御蔵溝 おくら 長野/諏訪市 衣之渡川⇔御蔵 運河   享保18(1733)以降   市教委 中央東線と交差するところで折れ曲がり、三線路(市道一級六号線)から御蔵跡まではなくなっている 米を舟で御蔵へ運ぶための水路/『諏訪藩主手元絵図(1733)』に描かれていない(これ以降の開削)  
写真 堀川 ほり 愛知/名古屋市(西区) 名古屋城近く~熱田湊 運河 長約6㎞(当初) 慶長15(1610)→寛文3(1663)、天明4(1784)、明治10(1877)を経て現状   市教委/WEB 大規模な改修 施工:広島藩主・福島正則/当初の開削の目的は、軍事上の防備線や名古屋城の築城資材の運搬水路であったとされるが、江戸期を通じて名古屋城下への生活資材の運搬水路として重要な役割を果たした 3 写真
写真 疋田舟川(敦賀運河) ひきたふなかわ 福井/敦賀市   運河 長6.5㎞,幅2.7m
(建造時)
文化12(1815)   市教委
(敦賀市史・通史編上p550-551、「江戸時代における敦賀・琵琶湖運河開削計画の歴史」〔藤井譲治〕)
道路拡幅のため水路幅は1m程度と半分以下に縮小/修景 江戸期に入り京都の商人が寛文9(1669)、翌寛文10、文禄9(1696)、享保5(1720)、その後、幕府が天明5(1785)、琵琶湖北岸の問屋や文化8
(1811)に敦賀と琵琶湖(最初の5案は塩津、最後のみ大浦)を結ぶ運河計画を立てた/「運河」といっても陸送の部分が含まれたり、水路の場合も曳舟だったりと、近代の運河とは全く様相の異なるものであったが、運河開通に伴う輸送ルートへの反対運動などのため断念された/完成したのは7度目の案で、当時老中になったばかりの小浜藩主・酒井忠進が、家老・三浦勘解由左衛門を普請奉行とし、敦賀~疋田~大浦間で運河と牛車を用いた輸送を行うことを計画し、敦賀~疋田間の水路を文化12
(1815)に開通させた(資銀は大坂納屋町餝屋六兵衛が拠出)/幅9尺
(2.7m)の水路で、米を13俵運ぶ川舟(幅7尺)を通すことができた(舟の大きさは安政期のもの)/疋田~大浦間では、大坂~京都~大津間に次いで牛車が導入された/しかし、「運河」は20年間使われ天保5(1834)に廃止されてしまう/安政4(1857)に小浜藩と幕府により一時再開されたが、塩津への搬送が大変だったためあまり利用されないまま再び廃止された
3 写真
写真 日向川(日向運河) ひるが 福井/(三方)美浜町 日向湖~若狭湾 運河   寛永12(1635)
→元禄13(1703)復旧
  町教委(三方五湖の漁業・下p44-45) 護岸C改修 若狭湾に面した外浜が波浪による浸食で海浜が狭くなったため、日向湖を舟溜りとして利用するために企画された運河→開削により日向湖に海水が流入するようになった/津波で埋没し元禄13に復旧 3
写真 早瀬川 はやせ 福井/(三方)美浜町 久々子湖~若狭湾 運河   寛文4(1664)拡幅   町教委(わかさ美浜町誌1p15) 護岸C改修 寛文近江・若狭地震(1662)で久々子湖東部が隆起したのを受け、排水能力を高めるため幅を2間(3.6m)から9間(16m)に拡幅した 3
写真 八幡堀 はちまん 滋賀/近江八幡市   運河 長6㎞,幅15m 天正13(1585) 国重伝建 市教委/WEB 石垣の復元・整備が進み、江戸時代の雰囲気を甦らせた観光地となっている 豊臣秀次によって新たに開かれた城下町で都市計画的に整備された水路網/八幡城の防御と琵琶湖水運とリンクした物流利用の目的で造られたが、秀次自害による廃城後は近江商人による「諸国産物回し」の場となった(琵琶湖を往来する船すべてに寄港を義務付けた) 1-2 写真
写真 高瀬川 たかせ 京都/京都市
(中京区・下京区)
鴨川→伏見 運河 長約10㎞(建造時) 慶長19(1614)   WEB/岡山県史7p643 大正9に舟運廃止/昭和7の改修で鴨川からの取入口を暗渠化 幕府が成立した慶長8(1603)頃から安南国東京との朱印船貿易で財をなした角倉了以が、保津川開削(1606)、富士川開削(1607)、鴨川改修(1609)の後、長男・素庵と協力して全額私費(7万5千両)で開削した運河/通行料の40%を幕府に提供、10%は維持費で、50%が角倉の収入となった→京都への物資搬入のほとんどを高瀬川が担ったため年1万両以上の収入をもたらした/保津川通運で使われた高瀬舟がここでも活躍した 2 写真
写真 高瀬川 一之船入・跡 たかせ、
いちのふないり
京都/京都市(中京区) (木屋町通二条下ル西側一之船入町)
高瀬川・加茂川
船溜(石垣) 20m×6m
(現存部)
慶長16(1611) 国史跡 WEB 保存状態良好/船溜部は立入禁止/入口に高瀬舟を再現(平成12撤去) 高瀬川を航行する高瀬舟の荷物の揚げ下ろし・方向転換をする場所/二条~四条間に9ヶ所造られた中で唯一現存 3
写真 東横堀川 ひがしよこぼり 大阪大阪市(中央区) 土佐堀川→道頓堀川 堀川→運河 長2.2㎞ 天正13(1585)   WEB 水路上に阪神高速1号環状線/約300mの遊歩道を設置/観光遊覧船が運航 計画:豊臣秀吉/豊臣時代の大坂城外堀として開削された堀川→その他の外堀は大坂冬の陣の和睦の際に解体、本丸は徳川時代の大坂城に基礎から更新されたため、豊臣大坂城の姿を唯一留めるものとされる/江戸期には水路が接続され、舟運路として活用/大阪の堀川としては現存最古 4 写真
写真 西横堀川 にしよこぼり 大阪大阪市(中央区) 土佐堀川→道頓堀川 運河 長約2.5㎞
→約20m
慶長5(1600)   WEB 昭和39の阪神高速1号環状線開通に伴いほぼ埋立→道頓堀川から20m区間のみ残る 大坂船場の西側に開削された運河/東西に流れる多くの運河が接続された/昭和4(1929)築造の金屋橋が架かる 5
写真 道頓堀川 どうとんぼり 大阪大阪市(中央区
・浪速区・西区)
東横堀川→木津川 運河 長約3㎞,
幅約36m
元和元(1615)   WEB 遊歩道の設置、遊覧船運行により観光利用 事業者:平野坂上七名家・安井(成安)道頓、大坂豪家・安井道卜(九兵衛)・平野藤次郎/舟運、利水を目的として梅の川を元に開削された運河/1660年代に芝居小屋を沿岸に集中させた事により繁華街として発展→沿岸は現在も大阪を代表する繁華街 3
  砂子水路 すなご 大阪門真市 <古川> 運河 長500m,幅6m
寛永7(1630)   WEB 護岸整備 農器具・農作物や生活物資を運ぶ際に使われたとされる/門真市内で一番ともいわれる桜の名所   3
  養源寺堀 ようげんじ 和歌山/(有田)広川町 (湯浅広港) 運河   正徳4(1714)   WEB/町教委 石垣が残る/水路の約半分をC改修   2
写真 弁財天堀 べんざいてんぼり 和歌山/(有田)湯浅町   運河 長約215m 慶長6(1601)   町教委 昭和6北側一部埋立/中波止石積残存 深専寺住職の有伝上人による広川流路改修の際に築造された運河/弁財天社を勧請し水神として祀った 2
写真 大仙堀 だいせんぼり 和歌山/(有田)湯浅町 (湯浅広港) 運河 長約123m 江戸期   町教委 石積護岸と舫石が残存 湯浅伝建地区北端に位置するかつての醤油積出内港の運河 3
  高砂堀川 たかさご 兵庫/高砂市   運河 南堀川:長161.8m,幅50.9m→長約150m,幅約20m 慶長年間(1596-1614)   市教委/WEB 南堀川のみ現存/減幅、C改修 企画:姫路藩主・池田輝政/高砂を加古川流域からの積出港とするため開削された運河/東側の高砂川と、高砂町を囲む形で開削した北堀川、西堀川、南堀川を合わせて運河として利用した/運河に沿って米蔵が建てられ、百間蔵と呼ばれた 4
  三左衛門堀 さんさえもん 兵庫/姫路市 運河公園(外堀川) 運河 長約2㎞,幅約25m 慶長6-18(1601-13)   市教委(文化財見学シリーズ43)/WEB 昭和37に運河公園として整備/C改修/下流側を野田川として繋ぎ、海まで流している 企画:姫路藩主・池田輝政/姫路城外堀と飾磨津の約4㎞を結ぶ目的で開削されていた運河/外堀と飾磨津は10m以上高度差があるため工事が難航し、慶長18(1613)の輝政死去により開削を中止した/三左衛門は池田輝政の異名 3
写真 舟川の舟まわし・跡 ふな 鳥取/(八頭)八頭町 見槻中<舟川> 舟廻し   江戸期   町教委(新船岡町誌p249-251) 僅か一部が残る 八東川に農業用の取水堰があり舟の航行が困難であった→才代村の大庄屋・中村甚兵衛が私財を投じて迂回路・舟川(長6.8㎞,幅1.8-3.6m)を開削 4
写真 倉安川 くらやす 岡山/岡山市(中区) <吉井川⇔倉安川> 運河、用水路 長約17㎞(区間外も含む),幅3.6m 延宝7(1679)   百間川の歴史p36/富山学区連合町内会 護岸の99%が全面改修/特に岡山市街地の区間は歴史性を無視した修景的護岸改修が行われた 施工:津田永忠/倉田三新田の用水確保のため吉井川から引いた用水路/従来の用水路や小川を利用して造られ、新掘区間は全体の15%程度しかなかったとされる/倉安川には当初から運河としての役割も考えられていたが、元禄5(1692)に江戸期全国最大の沖新田の干拓堤防が完成すると、大回りを強いられる舟運にとってショートカット運河として重要な存在となった 3
写真 吉井水門 よしい 岡山/岡山市(東区) <吉井川⇔倉安川> 石閘門(花崗岩)
(ゲートは木製)
第1:幅3.33m,石垣高(底から)5.15m,第2:幅3.33m,石垣高(同)5.50m,閘室:35m×20mの卵型 延宝7(1679) 県史跡 吉井水門調査報告書 後世の水害等により、石垣の積み直しが多い(第2水門の周辺が最も保存状態が良い) 国内現存最古の運河閘門(2門とも残る)/発想者不明:岡山藩(池田家宗家)の初代藩主・池田光政という説と、閘門建設の総責任者・津田永忠という説がある)/楕円形の舟たまりで、通行するの高瀬舟を検閲した/建造当初の精緻な石積み技術が残っている他、後世の多様な補修(すべて石造)も見られる/福岡県の中間の唐戸の建設に際し、堀川工事の役夫頭・一田久作が見分に訪れたことでも知られる(一田は、吉井水門の「閘門」としての2枚扉の機能を、「洪水防御」と誤解して中間の唐戸を2重扉にした) 2 写真
写真 出西岩樋・跡 しゅっさい 島根/出雲市 斐伊川~高瀬川 トンネル式閘門
(2段式)
  貞享2(1685)   現地解説板 昭和41の改修で閘門機能は消滅→灌漑用水の取水口 松江藩・竜野九郎ヱ門が6年かけて開削/斐伊川流域の仁多、飯石、大原郡から米、鉄、木炭などを松江に舟で運ぶために造られた/記録上、岡山の吉井水門に次いで国内で2番目に古い運河閘門/下記「来原岩樋」と並び国内で2例だけの連続2段閘門 5
写真 来原岩樋 くりはら 島根/出雲市 斐伊川~高瀬川 トンネル式閘門
(2段式)
素掘トンネル部
長約30m,幅2.4m,高約4m
元禄13(1700) 選奨土木遺産 大梶七兵衛に関する諸問題(美多 実) 斐伊川との間は道路で遮断/下段の閘室は公園化 3代目・大梶七兵衛(朝則)が、祖父の遺した設計者をもとに開削/貞享4
(1687)に祖父が完成させた高瀬川(上記参照)と揖斐川を結ぶ目的/記録上、岡山の吉井水門、上記「出西岩樋」に次いで国内で3番目に古い運河閘門(原形をある程度留めるものとしては2番目)/出西岩樋と並び国内で2例だけの連続2段閘門→下段の閘室が特殊な構造で、高瀬川と間府川(1712開削)の2つの川に接続するため2つのゲートが有する)
2 写真
  可部の新川 かべ 広島/
広島市(安佐北区)
太田川 運河 長約1.1㎞,
幅約3.6m
江戸期?   WEB C改修/舟入堀は埋め立てられ公園化 太田川と可部の舟入堀を繋いでいた川船専用の掘割 4
  姥倉運河 うばくら 山口/萩市 阿武川-日本海 運河 長約200m,幅約約8m→20-30m 安政2(1855)   WEB/調査 ほぼC改修/北東部に玄武岩の石積護岸(おそらく戦後)/拡幅 台地を開削し日本海に抜ける分水路をつくるというものであり、/松本川の最下流に架かる雁島橋の少し下手に運河への分流点があり、鶴江台の南麓から萩漁港に至る約900mの区間が姥倉運河の名で呼ばれている/護岸は一部を除きC化 4
写真 行当の切抜き ゆきとう 高知/高知市 弘岡井筋 切通し(運河) 長40m(当初),
高10m,幅10m
慶安元(1648)頃 市史跡 春野町教育委員会/市教委 片側が道路の垂直なC擁壁 野中兼山の指示のもとで普請奉行・一木権兵衛(郷士から登用した人物)が施工した弘岡井筋の最初の難関工事(高さ11mの大岩の破砕) 3
写真 唐音の切抜き からと 高知/高知市 新川川<鳥坂山> 切通し(運河) 長100-120m,
高30m,幅12-14m
慶安5(1652)頃 <春野町史跡> 春野町教育委員会 C堰が造られイメージが変わったが、岩肌が一部に残る 上記の弘岡井筋のもう一つの難関箇所 3
写真 弘岡井筋 ひろおか 高知/高知市 仁淀川→新川川 運河、用水 長約4㎞(本線) 慶安5(1652)   WEB/市教委 C化/上記の切通し区間や下記の水閘はパイプ化 仁淀川下流に八田堰が設けられたため、上流からの物資を高知城下に輸送するためと灌漑を目的とし、野中兼山によって開削された運河/仁淀川→弘岡井筋→新川川→長浜川→浦戸湾→鏡川→高知城下のルートを辿った/主目的は灌漑用水で舟運はサブ的存在 3
写真 新川のおとし しんかわ 高知/高知市 弘岡井筋→新川川への接続部 水閘(傾斜水路) 長22m余,高低差2.7m,幅9m 慶安5(1652)以降 市史跡 春野町史p275
-278/市教委
保存状態良好/明治29年の資料に、「おとし」の構造を「大石木材を用い、下地を大石にて畳し、上を松板にて蒸廻す」と書いてあり現状と異なるが、それ以後に改修が行われた記録は残っていない/材木を200年以上流下させ続けていれば損傷が発生するため、江戸期に改修が行われた可能性は高い 野中兼山(アイディアの出所は不明)/仁淀川下流に八田堰を設けたため上流からの材木搬送ができなくなった→弘岡井筋~新川川経由で輸送するため、2つの水路を結ぶ「傾斜水路」を造った/仁淀川最下流に居住していた材木輸送関連の人を新川に移住させたのが17世紀後半なので、慶安5に八田堰が完成後早い時期に「おとし」もできたと推測できる/木材を流すだけなら八田堰に舟通しを設ければよいので、ルート変更には、仁淀川から太平洋を経由せずに高知城下まで木材を運ぶ方が良いとする判断も働いたと思われる/わが国で唯一の傾斜水路/最下部に大きな石が不規則に並んでいるが、かつては水位が高く水面下に隠れていたとされる 1 写真
写真 那珂・御笠堀川・跡 なか、みかさ 福岡/大野城市 新川緑地公園 <運河> 約850m(緑道) 宝暦3(1753)   中間市史・中p304-305
/WEB(みさき道人)
流入する水量が少なかったため運河の機能を果たせず廃止→埋戻し→公園化 寛文4(1664)に福岡藩が計画し、その後着工・中断していた「筑後川と博多を結ぶ」運河⇒計画再燃、寛延2(1749)着工、宝暦3に竣工 4
写真 吉田・大膳間の切貫・跡 よしだ、
だいぜん、
きりぬき
福岡/
北九州市(八幡西区)・
(遠賀)水巻町
堀川(遠賀堀川) 切通し(運河) 長400m
(水巻側65m
北九州側335m)
宝暦7(1757)
→宝暦9(1759)拡幅
県史跡 水巻町教育委員会/中間市史・中p305-321 北九州市側の保存状態は良好(ただし、左岸側は明治期に炭鉱会社により拡幅された可能性もある)/水巻町町側は一部線刻や矢穴跡が残るが左岸側の大半がC擁壁化 遠賀川分流の堀川開削にあたっての最大の難所(初代藩主・黒田長政が立案・着工・死によって中断したままだった「堀川」最大の難所・大膳堀の代替ルート)/使役頭: 一田久作/切通し区間は長いが、ノミの跡が残る「切貫跡」はごく短い区間/宝暦7に試し掘り幅3間で開削、宝暦9に舟運を考慮して半間拡幅/石工頭・勝野文兵衛を意味すると思われる「文」の文字もある 1-3 写真
写真 遠賀堀川 おんが 福岡/
北九州市(八幡西区)・
中間市・(遠賀)水巻町
遠賀川→洞海湾 運河 長約12㎞,
幅6-10m
宝暦12(1762)、
文化元(1804)上流に伸延
  市教委(中間市史・中p297-338) 下記の「車返切貫・跡」を除き、ほとんどの区間でC三面張り/写真は北九州市八幡西区の折尾付近 遠賀川流域から若松の米蔵への舟運、折尾村他の新田の灌漑用水確保のため開削された運河/歴史: 黒田長政が元和7(1621)に着工した時点では遠賀川の洪水対策が目的(放水路⇒幅18m)→長政の死により中止→元文2(1737)に灌漑用水として着工、翌年中止→最難関部を車返の谷にルート変更して宝暦5(1755)着工、同7(1757)貫通、同9(1759)拡幅→その他の部分も宝暦12(1762)完成→取水部の中島の唐戸同年中に2度決壊→場所を変更し下記「中間の唐戸」を翌13(1763)に完成→中間の唐戸周辺が湿田化したため、文化元(1804)、遠賀川からの取水を上流側に変更、寿命の唐戸を造る 1-4
写真 寿命の唐戸 じめ 福岡/北九州市
(八幡西区)
堀川(遠賀堀川) 水門(木+石)   文化元(1804) 市指定 WEB/市教委 水路上部の整形布積は近代の改修時のもの、下部の石積はオリジナル/遠賀堀川関連の遺産としては最上流部に位置する 遠賀川から堀川への入口に造られた水門/遠賀川の増水時に河川水の流入を遮断するよう堅固に造られている⇒中間の唐戸と同一の構造
(中間唐戸同様、周辺で唯一の岩盤地帯を選び設置されている)⇒上流側の石梁に「洪水時に中間柱を立てる仕口の溝がない(理由不明)/瓦葺の上屋付き
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写真 中間の唐戸 なかま 福岡/中間市 <遠賀川>→堀川(遠賀堀川) 水門(木+石+岩盤) 幅3.0m, 2枚の扉間の距離4.1m 宝歴13(1763) 県史跡 市教委(中間市史・中p321-325)/遠賀堀川―史料と解説p43 両岸とも岩盤を開削して築造されていて、ノミの跡まで確認できる/屋根を含め木材部分は何度も更新 遠賀川から堀川への入口に造られた水門/遠賀川の増水時に河川水の流入を遮断するよう堅固に造られている⇒岡山の吉井水門から技術を伝授(岩盤開鑿、「2枚扉」)⇒岡山に派遣された使役頭・一田久作が、吉井水門の「閘門」としての2枚扉の機能を、「洪水防御」に転用したと思われる⇒上流側の石梁に「洪水時に中間柱を立てる仕口の溝がある(洪水時の水圧による負荷軽減)/瓦葺の上屋付き/宝暦12年10月20日に奉行に任命された嶋井市太夫が、就任後に一田久作を派遣したことから、中間市史の記述のような宝暦12年の竣工は無理なので小川賢説に従って宝暦13と推定 2 写真
写真 舟路川 ふなじ 福岡/行橋市   運河   安政元(1854)改修   市教委 大規模な改修 年貢米等の物資を長峡川沿いの倉へ運ぶために通船/安政の改修で流路の一部をを直線化 3
写真 吉田川の伏越 よしだ 福岡/(遠賀)水巻町 堀川(遠賀堀川)/吉田川 水路トンネル
(石函)
長25m,幅190㎝,高90㎝ 宝暦12(1762)(通水時期)   町教委 使用された石材(砂岩)を1個展示/現役/視認できない 底面石(115×40×20、砂岩)、側面石(90×70×20、砂岩)、天井石(230×30×30、花崗岩)を箱型に並べた構造 3
写真 石坂舟路 いしざか 福岡/(京都)みやこ町 今川 石積み水路
(護床工付き)
約40m(断続的), 幅5-6m,高1-1.5m 文化年間(1804-17)?   町教委 一部現存(場所により状況が異なる) 荷物運送用/本川が急流だったため直線的な迂回路を設けたと推測される/水中の敷き石が見事 2-3
写真 大船越瀬戸堀切 おおふなこしせと、ほりきり 長崎/対馬市   運河、切通し 長117m,幅19m
(開削当初)→
長260m,幅23-53m
寛文12(1671)   WEB/現地解説板/市教委 C護岸 対馬藩「中興の英主」と言われる第3代藩主(第21代宗氏当主)宗 義真が行った大事業の1つ/南北に長細く地続きだった対馬の地峡部を延べ35000人の人夫を使って開削した海面式運河(1月に着工、6月下旬に竣工)/運河ができるまでは積荷を降ろし船をかついで越したため「船越」の地名が残ったとされる 3 写真
写真 中城川の水門群・跡 なかじょう 大分/日田市 <日田川通船> 運河   文政9(1826)   市教委/WEB(みさき道人) 堰の痕跡を留めない/写真は、水位差の分かる部分 日田玖珠郡内の天領の年貢米の輸送は、関村まで山越えの道を馬で運んでいた→下記「小ヶ瀬井路」の完成が契機となり、西国筋郡代・塩谷大四郎正義が豆田町の豪商・廣瀬久兵衛と草野宗内に命じて中城川通船を可能にするような工事に着手、翌文政9に完成/中城川通船にあたっては、数百mごとに計9ヶ所の堰を設け、「最初の堰を閉じて水を貯め、次の堰を閉じて最初の堰を開くと十分な水量のまま舟が下流に流れ…」という方式を採用したとされる→9ヶ所に離散的に設置された単独の堰を閘門と考えることは原理的におかしい→連続閘門の場合 各扉の間隔は木製の場合10m前後が限界であるし、離散的な堰の間をもし「閘室」と考えると、仮に水位差50㎝、堰間距離300m、水路幅1mとすると1回の開け閉めに150㎥の水を必要とするが、これだけの量の水を短時間で「閘室」内に供給し、かつ、木製扉で水密性を維持することは物理的に不可能(管理者・馬場の意見)→結果的に、恐らく、ある程度水位を高めておいて、その水位差で押し流す程度の役割しかなかったのではないか→遡上する場合はこの方法では機能しないので、荷下ろしした後なので曳き舟をしていたと推測される(管理者・馬場の意見) 5
写真 堀川運河 ほりかわ 宮崎/日南市 広渡川河口~油津港 運河 長約1.5㎞,
幅22-36m
貞享3(1686)   (財)飫肥城下町保存会/油津2/市教委 良好な景観を構成している堀川橋と石護岸(ともに、国の有形登録文化財)は残念ながら近代の構造物なので、江戸期のものは水面しか残っていない 飫肥藩五代藩主・伊東祐実の命により開削された広渡川・酒谷川河口と油津港を結ぶ運河で、飫肥山中から伐り出された木材(松、楠、植林された杉)を南に突き出た岬を廻り込まずに直接油津港に輸送するためのもの(距離だけの問題ではなく、危険や、木材の流失を伴っていた)/藩士・中村與右衛門と田原権右衛門が堀川奉行に任じられ(人事異動で、中村與右衛門は平部俊英に途中交代)、岩盤区間の開削を伴う難工事を3年で完成させた 2 写真
写真 三府龍脉碑記 さんぷりゅうみゃく 沖縄/名護市 名護博物館 石碑(隅丸型)   1750年 県有形
(歴史資料)
名護博物館/WEB(みさき道人) 沖縄戦で所在不明→幸地川の河床から破片の一部が発見 (正面)「三府龍脉碑記/竊惟天分星宿地列山川而天地列相孚之美誠莫切焉故在地成形者峙而為山岡瓏阜散而為/平原郊濕皆莫非二氣之凝布矣是以察岡瓏之所来則知平原之發跡所謂萬山一貫是也吾/國三府四十一縣岡瓏平原分合向背成乎虎伏龍蟠之勢得乎同幹異枝之宜而龍脉綿綿大/顯天然之姿是誠萬世洪福之國也前古/天孫氏首出闢國始建/王城於首里府是由神眼之所相豈係常人之臆度奈至後世妄懐愚見或有言曰首里嶇岨不若/名護平担之為愈或有言曰屋部港自西横東古我地港自東横西而其間唯有一丘爲隔矣國/頭羽地及大宜味三縣船隻遠經郡伊二嶋屢爲海風所阻何不劈開是丘而與船隻往還之便/也云爾鳴呼/王城及是丘悉皆微茫龍脉之所累豈可妄移/王城於他方乎豈可妄劈是丘而作水路乎今帰仁本部二縣唯頼是丘一脉而爲三府一體三府/亦頼是丘一脉而保球陽雄勢若劈是丘而作水路則二縣龍脉不唯不相属球陽却失大體雄/勢也必矣方今/君主生質天縦徳學日新思之深慮之切特命臣温以鐫斯文於碑石永俾後人知龍脉之係乎邦家/景運而有萬山一貫之理矣 旹」/18世紀中頃に名護湾~羽地内海を結ぶ運河開削を望む声が上がったのを制止するため蔡温が建てた碑文 3